SBIの創始者

北尾吉孝(きたお・よしたか)氏は、SBIグループの創始者である。SBIグループは、「SBIホールディングス」を持ち株会社として、証券、銀行、保険、ベンチャー投資会社など幅広い金融業を手掛ける。いわゆる「金融コングロマリット」である。

野村證券からソフトバンク、そしてSBIへ

SBIは1999年、IT業界の起業家・孫正義氏が率いる「ソフトバンク」の金融子会社として、設立された。 SBIとは、「ソフトバンク・インベストメント」の略語だった。 北尾氏は初代の社長に就任した。 この4年前、北尾氏は孫氏からヘッドハンティングされ、野村證券を退社してソフトバンクの常務になっていた。
なお、SBIとソフトバンクの資本関係は2006年に解消され、SBIは独立グループになった。この時点から「北尾組」になったのだ。

北尾吉孝氏
プロフィール・略歴
1951年 兵庫県西宮市に生まれる
1974年 慶応大経済学部卒業後、野村証券入社
1978年 英ケンブリッジ大学卒業
1992年 野村証券事業法人三部長
1995年 ソフトバンク入社(常務就任)
1999年 ソフトバンク・インベストメント(現SBIホールディングス)社長兼CEOに就任

家系

事業家の血筋

北尾氏は1951年(昭和26年)1月21日、兵庫県西宮市に生まれた。実家は代々、事業家であり、大阪・船場でビジネスを営んできた。江戸時代には木材問屋、紙問屋、出版社を手掛けた。いわば「名家」であった。

大阪で朝日新聞を独占販売

曽祖父(ひいおじいさん)の北尾禹三郎は、大阪一円で朝日新聞を販売していた。朝日新聞を創業した村山龍平氏からの直接の依頼だったという。60年間にわたり、大阪で朝日新聞を独占販売した。

中国古典への造詣

また、祖先には江戸時代の儒学者、北尾墨香(ぼくこう)がいる。その影響もあり、北尾家は中国古典・中国思想に対する造詣が深い。

日常的に論語を引用

父・精造は、「論語」を引用しながら、人生とはいかにあるべきかを諭すことが多かったという。北尾氏が嘘をついた時には「天網恢恢疎にして漏らさず(天は悪事を働いた者を絶対に見逃さない)」と諭したという。 やがて自ら古典を読み漁るようになり、父と同様、周囲に古典を披露するようになる。

中国での交渉に役立つ

後日、こうした資質がビジネスで役立つようになったという。北尾氏は中国語が堪能なわけではない。それでも、中国での交渉の席で古典の知識を披露すると、親近感が生まれ、相手の懐に入るきっかけになったという。

輸入業者の父

父・精造の仕事は、洋書の輸入業だった。主に政府関係や企業の研究機関、大学と取引をしていた。

野村系のプランテーション会社に勤務

また、精造は野村證券の創業者である野村徳七が経営していた野村合名会社に戦時中一時、勤めたことがあった。野村合名会社の子会社で海外でのプランテーション事業等を行っていた「野村東印度殖産」のスマトラの拠点に駐在した。そこで終戦を迎えた。

留学中に格言でアドバイス

北尾氏は野村証券入社後に英ケンブリッジ大学に留学した。留学中、父は週に1度は北尾氏に手紙をよこし、その最後は必ず、古典の格言を引用したアドバイスで締めくくられていたという。

慈善事業に影響

北尾氏はSBI設立後、福祉の慈善事業に力を注ぐようになったが、その背景には、1997年に父が亡くなったことが影響していると見られている。父はこんなことをよく言っていたという。「100畳の大広間があっても仕方ない、100枚洋服を着て歩くわけではない、1日100回ご飯を食べることはできない・・・」

名家出身の母親

北尾氏の母親の美津は、東洋綿花の初代社長だった浅山伊三郎の娘。美津は祖父の仕事の関係で香港で生まれ、その後、天津に移り8歳まで中国で育った。

野村時代の伝説

エリート幹部候補として野村證券に入社

北尾氏は、兵庫県立神戸高校から慶応大学(経済学部)へ進学した。そして、1974年に卒業し、野村証券に入社した。就職先としては当初銀行を志望していたが、自由闊達で野武士的な社風と当時の人事部担当者の人間性に惹かれたという。

博学ぶりで面接官を驚かせる

野村の入社試験の役員面接をめぐるエピソードがある。面接官は、経済学部の学生だから、経済学の体系を聞いた。すると、系統別に学者をきちんと答えるし、本も読んでいた。為替のことを聞けば、『いま購買力平価はこうで国際収支がこうなので、このくらいが適当かと思っています』と答える。すべての質問に簡潔、明瞭に答える。面接官は驚いたという。

「特別採用」枠

当時、野村証券はきたるグローバル化に向けて「特別採用」を設けていた。野村では、新入社員はそれまで必ず支店回りからスタートしていた。しかし、「特別採用」は入社時からいきなり本社の総合企画室や引き受け・公開業務などに配属された。北尾氏はこの特別採用枠のエリートだった。

有望な人材をそろえた「華の1974年組」

その年、1974年(昭和49年)に入社した社員は「華の49年組」と称され、将来を嘱望された。若きエリートたちは入社してから数年後には、ハーバード、シカゴ、オックスフォードといった名門大学へ送り出された。

なお、この数年後、後にストックジャパン社長となる河端哲朗氏が野村證券に入社。1981年には山下哲生氏が大蔵官僚を入省から3年で辞めて野村に転職した。

ケンブリッジ大学へ

北尾氏は入社後まず総合企画室に配属された。そして、イギリスの超名門ケンブリッジ大学経済学部の試験を受け、見事に合格。1976年(昭和51年)から2年間留学した。 大蔵省、日銀といった官僚は毎年ケンブリッジに数人ほど留学していたが、証券マンは極めて異例だった。野村としても初めてだった。

ニューヨーク支店で伝説的な活躍

ケンブリッジを卒業し、帰国後は海外投資顧問室に配属となる。さらにニューヨーク支店に赴任となった。ここから、国際派・北尾氏の伝説的な活躍が始まる。

ウォール街で超マイナーだった日本株

NY支店では、株式課長として日本株を担当した。北尾氏が赴任した1982年当時のウォール街では、それまで日本株には全く目もくれられていなかった。というより、相手にされていなかった。

大口の機関投資家に売りまくる

そこで、北尾氏は英文で産業動向や日本株についてのリポートを作成。新日鉄や東芝などの株を、米国の企業年金や州の年金基金といった大口の機関投資家に次々と売り込んでいった。 最も顧客開拓に苦労した老舗ヘッジファンドのスタインハート・パートナーズとは、100万株単位で日本株の売買を行ったという。

外資系証券会社から誘い

つまり、北尾氏はウォール街で日本株を売り込む先兵となったのだ。日本株の売買で一日800億円という社内記録を樹立したという。後にゴールドマン・サックスで活躍し、マネックス証券を創業する松本大氏は、まだ就職すらしていなかった時代だ。北尾氏の前例のない活躍を聞いた外資系証券会社からは、ヘッドハンティングの話が相次いだ。とくにメリルリンチなどは積極的だったという。

事業法人部で将来の社長候補に

1987年(昭和62年)に帰国し、第二事業法人部次長に就任した。事業法人部は、野村のエースが集まるに部署だった。昇格は順調で、実績から見れば役員間違いなし。それどころか、野村の将来の社長候補の一人といわれていた。後に北尾氏は「社長になって野村を世界最大のインベストメントバンクにする。これが僕の夢だった」と語っている。

ロンドンでM&A業務に従事

1989年(平成元年)、当時野村証券が26%出資していた米国投資銀行「ワッサースタイン・ペレラ社」に常務として出向。英国ロンドンに駐在し、数多くのM&A案件に携わった。1992年(平成4年)、帰国した北尾氏は事業法人三部長に昇格する。

損失補填事件で辣腕経営者が辞任

こうしたなか、1991年に野村證券を揺るがす「損失補填事件」が発覚する。この責任をとる形で、田淵節也氏、田淵義久氏といった実力派の経営者が相次いで辞任に追い込まれた。大和証券でも、同前雅弘社長が辞任した。

田淵派を排除

野村證券では、田淵氏の後に社長に就任した酒巻英雄氏が、田淵派排除の人事を断行する。北尾氏を評価していた上司のほとんどは田淵派とみられていたため、出世の道に暗い影が差しかかってきた。

実績は抜群だったが・・・

そもそも酒巻体制とは肌が合わなかった面があったようだ。北尾氏は相手に迎合してものを言うことを最も嫌う。「ダメなものはダメ」とはっきり言うタイプである。「華の1974年組」からそろそろ役員を入れようとなった1995年、実績では抜群だった北尾の役員入りは実現しなかった。

孫正義との出会い

北尾氏の人生を変えたのは、6歳年下の孫正義・ソフトバンク社長との出会いである。孫氏とは、1994年(平成6年)にソフトバンクが東京証券取引所に店頭公開した際、野村証券の担当部長として知り合った。ソフトバンクの店頭公開では、野村證券が主幹事を務めた。

いきなり口説かれる

その後、業務で孫氏に会いに行ったとき、帰りがけに「1分間だけ」と呼び止められ、いきなり「ぜひソフトバンクに来てください」と口説かれた。北尾氏は「10日間だけ時間をください」と伝え、すぐにソフトバンクの業績やマルチメディアに関し徹底的に調べたという。最終的に受諾を決めた理由は、事業の先見性や経営者としての孫氏に魅力を感じたためだった、としている。

若干37歳の孫氏

当時、孫正義は脚光を浴び始めたころだった。1944年7月に株式公開したソフトバンクは2万円近い初値を記録。100倍台のPER(株価収益率)で、期待の新興企業として注目を浴びていた。発行済み株式の約70%を持つ創業者の孫氏は若干37歳。その若さで時価評価で200億円以上の資産を手にしていた。その後も成長を持続させ、上場ゴールにはならなかった。

大型買収で名を馳せる

また、ソフトバンクは世界的な大型買収でも名を馳せるようになっていた。1994年12月、米ジフ・デービスの展示会部門を約127億円買収。さらに、翌1995年4月、米インターフェースグループのパソコン展示会「コムデックス」事業を約749億円で買収していた。

移籍

外資からの誘いを蹴る

一方、北尾氏に対しては、外資系からのヘッド・ハンティング活動も一段と熱を帯びていた。しかし、外資で日本人が本国のトップになれることはなく、せいぜい日本法人のトップである。「野村を世界に冠たるインベストメント・バンク(投資銀行)にしよう」と、グルーバルな視点で仕事をしていた北尾氏にとっては、外資系は魅力的ではなかったという。

部下も次々とソフトバンクに合流

野村証券事業法人三部長だった北尾が野村を辞めると、北尾の後を追って、優秀な社員が次々とソフトバンクに転じた。部長の北尾に続いて、次長の中西宏之氏、課長の川島克哉氏の3人。つまり、部の中枢がごっそりソフトバンクに移ったのだ。

野村の酒巻社長が激怒

その他にもM&Aを専門とする野村企業情報でソフトバンクの買収アドバイザリーを務めた橋本太郎氏など、6人が相次いでソフトバンクに移籍する。さすがに当時の酒巻英雄・野村証券社長も激怒したという。それだけ北尾氏の人望は厚かったのだ。

ソフトバンクでの伝説

常務に就任

1995年(平成7年)5月にソフトバンクに顧問として入社し、6月に財務担当の常務取締役に就任した。

買収の資金調達を担当

孫氏と北尾氏は、先行する米国のインターネットの動向に目を配り、周回遅れで日本に導入する「タイムマシン経営」を掲げた。検索サービス(ヤフーなど)、金融サービス(Eトレード、モーニングスターなど)などに相次いで出資する。その買収攻勢を主導したのが、北尾氏だった。

間接金融から革新的な直接金融へ

北尾氏は野村證券時代に培った知見を駆使しつつ、ソフトバンクで革新的な資金調達に取り組んだ。新しい形の直接金融による資金調達に挑んだのだ。メーンバンク制から複数の銀行にサービスを競わせるコアバンク制への移行を実現。さらに、社債発行では銀行団で社債管理会社をつくる方式から財務代理人を置く方式を導入した。

コムデックス買収

北尾吉孝氏がソフトバンクで最初に取り組んだ大きな課題の一つが、主力銀行団との関係の見直しだった。

興銀、第一勧銀、三菱、富士らの協調融資

北尾氏が就任する前に行われたコムデックス買収では、銀行による大規模な協調融資が行われていた。協調融資団は日本興業銀行、第一勧業銀行、三菱銀行、富士銀行など、日本を代表する銀行が名を連ねていた。

買収を銀行に反対されるリスク

コムデックスの買収資金は約800億円。そのうち500億円強が協調融資だった。協調融資は無担保・無保証。しかし、条件(財務制限条項)が付いていた。「M&を行う場合、事前に知らせる」との条項があったのだ。これは、今後、銀行が一行でも反対すれば、M&Aはできないことを意味していた。

「FA方式の社債」第1号に

北尾氏は著書「挑戦と進化の経営」で、「この条項を外さない限り、ソフトバンクの早期成長は無理だと思った」と振り返っている。条項撤廃を求めて銀行との交渉に臨んだが、拒否された。そこで「財務代理人方式」(フィスカル・エージェント/FA)方式による社債という道を選んだ。FA方式による普通社債は、1993年(平成5年)の商法改正によって制度化されたばかりで、ソフトバンクがその第一号となったのだ。

銀行融資を全額返済

この方式により、1995年(平成7年)9月に500億円の無担保普通社債(12年債)を発行。銀行融資を全額返済した。

大物ベンチャーを次々と買収

その後、ソフトバンクは大型のM&A戦略を一気に加速させた。主な案件は以下の通り。

買収・出資
  • ジフ・デービス社の出版部門「Ziff-Davis Publishing Company」
  • キングストン
  • UTスターコム
  • 中国アリババ
  • アメリカのYahoo
ジョイントベンチャー設立
  • モーニングスター
  • イー・ローン
  • インズウェブ
出資先のIPOで稼ぐ

1998年4月、買収していたジフ・デービスがニューヨーク株式市場にIPO(新規上場)を行った。19億ドルを調達し、うち貸付金の一500億円がソフトバンク本体に返済された。これを受けて、同年7月には米ヤフーへの追加出資を断行。さらに、米国のEトレードへも出資(4億ドル)した。出資先のベンチャー企業のIPOによって得た資金を元手に、より規模の大きい投資に取り組んだのだ。また、ソフトバンク自身も1998年1月に東証一部に昇格した。

トレンドマイクロも上場

1998年8月には、出資先の一つで、インターネット上の仮想コミュニティを運営するジオシティーズが米ナスダックに上場する。さらに、日本でも同月、ウイルス対策ソフトのトレンドマイクロも店頭市場に公開した。

ベンチャー出資も北尾氏の担当

グループ会社の株式公開による資金調達、そして投資ファンドによるベンチャー企業の発掘。こうしたソフトバンクの資金の流れを一手に取り仕切ったのが、北尾氏だった。

ネット証券参入

米オンライン証券「Eトレード」と新会社

ソフトバンクは1998年6月、米国のオンライン株式取引の最大手Eトレード(カリフォルニア州)と、日本国内で共同出資による証券会社を設立することで合意。社名は「イー・トレード」とした。インターネットを使った株式の電子取引業に、日本市場で参入することになった。

米Eトレードとは

1998年春の時点で、アメリカではインターネットを使った証券取引が300万口座くらい、つまり市場全体の3%近くの規模に成長していた。 米Eトレード社が初のインターネット取引を始めてから、まだ2年足らずしか経っていなかったが、すでに「シェア1位」の地位を築いていた。

シリコンバレーの新興ソフト会社

株オンラインによると、米国のEトレードはもともと証券会社ではなかった。シリコンバレーの新興ソフト会社だった。技術そのものは革新的ではなかった。しかし、発想が優れていた。証券ブローキング(仲介)が極めて付加価値の「低い」ビジネスだということを見抜いていたのだ。だからインターネットで使われている安価なオープン技術を使うことで、大きな成功が得られる確信していたのだ。

手数料を格安に

一方、日本でも、政府の「金融システム改革(通称・日本版ビッグバン)」の一環として、株式の売買委託手数料が自由化されこととなっていた。北尾氏らは、米Eトレードと組んで日本の証券ビジネスに参入するにあたり、手数料を格安に設定し、個人投資家の取り込みを狙うという戦略を立てた。証券業が1998年に免許制から登録制へ移行するなかで、異業種参入の象徴的な出来事にもなった。

リテール1位を目指す

新会社「イー・トレード」の出資比率はソフトバンク58%、Eトレード42%となった。ソフトバンク常務だった北尾氏が、イー・トレード社長も兼務した。北尾氏は「日本のリテールでナンバーワンになる」ことを掲げた。

SBI発足

分社化

1999年4月、ソフトバンクは出版部門などを分社化し、持ち株会社制に転換した。北尾氏が率いていた管理本部(財務部門、経理部門)も別会社になった。金融事業はソフトバンク・ファイナンス株式会社を中間持株会社とし、その下に様々な会社がぶら下がることになった。

ソフトバンク・インベストメント

この新しい枠組みのなかで、1999年7月、ソフトバンク・インベストメントが発足する。略して「SBI」である。社長は北尾氏。このソフトバンク・インベストメントが、今日のSBIホールディングスになっている。

当初はベンチャー投資会社

設立当初のソフトバンク・インベストメント(SBI)は、ソフトバンク・ファイナンス傘下でベンチャー・キャピタル部門を統括する子会社という位置づけだった。1999年7月に第一号インターネット・ファンドを組成。123億円を調達した。新規参入が相次いでいた国内ベンチャー投資業界において、SBIは早々にトップクラスの資金供給力を備えた。

上場後、イー・トレードと合併

SBIは翌年の2000年12月に大阪証券取引所ナスダック・ジャパン市場に上場。さらに、2003年6月にイー・トレードと合併した。

孫氏からの独立

ソフトバンクの連結対象から外れる

ソフトバンク・インベストメントは2005年(平成17年)3月に公募増資を行い、ソフトバンクの連結対象から外れ持分法適用会社になった。この後の2005年6月、北尾氏はソフトバンク常務を退任する。翌月の7月には、持株会社SBIホールディングスに社名変更。同時に、SBIは「ソフトバンク・インベストメント」の略称ではなく、「Strategic Business Innovator(戦略的ビジネスの革新者)」の略とした。

完全な独立企業に

2006年(平成18年)8月、ソフトバンクが残りのSBIホールディングスの持分約27%を売却。これによってソフトバンクとSBIの資本関係が完全に解消され、独立企業になった。 これに先立つ2006年7月、証券子会社は「Eトレード証券」から「SBIイー・トレード証券」に社名変更された。2008年7月に現在の社名の「SBI証券」になった。

金融再編の台風の目

その後、SBIはネット証券界ではいち早く株式売買手数料ゼロ化を宣言する。2016年11月にネット証券で初めて10兆円の大台に乗せた。一方、銀行界では地銀連合構想をぶち上げ、地方銀行に相次いで出資。金融業界の再編の中心的な存在になった。


出典・参考文献

  • 毎日新聞
  • 産経新聞
  • AERA
  • 北尾吉孝氏著「挑戦と進化の経営」
  • エコノミスト
  • 週刊ダイヤモンド
  • 日経ビジネス
  • 週刊東洋経済
  • 日経新聞
  • 日経コンピュータ


SBIホールディングス 北尾吉孝氏の動画



オンライン証券会社の口座数ランキング

順位 会社名 口座数 説明
SBI証券
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1106万 オンライン証券の中で最大規模。預かり資産規模もネット証券会社のトップを走る。 全口座数は野村證券を抜く勢いで、対面証券会社を含めた証券業界全体で近く1位を奪取する見通し。 (詳細はこちら↑
楽天証券
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924万 三井住友銀行と米大手投資銀行DLJが1999年に設立したオンライン証券会社「DLJディレクトSFG証券」が前身。 これを楽天が2003年に買収した。
楽天グループの傘下であることが強み。 楽天市場、楽天銀行、楽天カードなどを通して、 一般消費者との接点が多い。 楽天ポイントが使えるメリットも評価されている。
野村ネット&コール
野村ネット&コールのロゴ
540万
マネックス証券
マネックス証券のロゴ
224万 独立系のネット証券専業会社として、 株オンライン取引の黎明期に設立された。 創業者はゴールドマン・サックス出身の松本大氏。
auカブコム証券
auカブコム証券のロゴ
162万 三菱UFJ銀行系。 伊藤忠商事系など複数のネット証券が合併しながら、 規模を拡大してきた。 2019年に携帯電話のau(KDDI)が資本参加。 それまでは上場企業だったが、上場を廃止し、三菱とauだけが株主となった。
松井証券
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148万 もともとは昔ながら小規模な証券会社だった。 それを創業家の娘婿の松井道夫氏が受け継ぎ、 オンライン証券会社へと業態を大転換させた。 「営業マンの否定」「人間というコストの否定」を掲げ、 フィンテックの道を突き進んできた。
DMM.com証券 87万
GMOクリック証券
GMOクリック証券のロゴ
52万 サーバーやドメイン管理分野で日本トップのネット企業GMOグループに属する。 GMO社内の事業として、自社でゼロから立ち上げた。
岡三オンライン証券
岡三オンライン証券のロゴ
41万 岡三証券グループ傘下のインターネット専業証券会。 SBIが51%出資する運用会社「SBI岡三アセットマネジメント」は、グループ企業である。

※2023年12月現在